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8月, 2010の投稿を表示しています

フットパス探し

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フットパスってご存知ですか? 歩いて景色や風土を楽しむことです。 詳しくは ↓ http://www.japan-footpath.jp/index.html そのフットパスコースを探しに、稚内市内のあちらこちらを探索しています。 旧海軍大湊通信隊稚内分遺隊幕別送信所庁舎   1937年(昭和12年)竣工1902年(明治35年)大岬(現 宗谷岬)において運用開始された   海軍望楼にその起源を辿ることができる。   1928年(昭和3年)から2年掛けてクサンル(現 稚内市緑2丁目3)に局舎を移し   1931年(昭和6年)からは幕別(現 恵北)に機能を分化、1937年(昭和12年)には   「稚内海軍通信隊幕別分遺隊」となり終戦まで使用することとなる。   真珠湾攻撃の命令電報「ニイタカヤマノボレ」を中継したとされている。   道北最大級のレンガ造建築物である。 見返台  稚内公園から育みの里のコースを通り丘からみた雄大なパノラマ。  利尻島・礼文島を見ることができます。 いいところがありますよ。。。Wakkanai

快晴の宗谷岬

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宗谷岬も、もうすぐ秋に向かいます。

Wakkanaiみなとコンサート

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稚内のみなとを考える女性ネットワークさんが主催する北防波堤ドームで 行われているコンサートが8月22日(日)快晴のもと開催されました。 稚内には珍しく気温も25度近く合ったでしょうか、多くの市民や観光客の 皆さんで賑わっていました 。

営業スタート

8月14日~16日まで戴いた夏季休暇を終えて、本日より通常営業に戻りました。 この休みの期間、道北地方は天気が悪く、北海道全域で晴天、真夏日・・・というニュースを見てがっかりしていたところです。 たぶん、観光の皆様も残念がっていたことと思います。 特に稚内から南に80kmほど下りたところ、ちょうど北緯45度線あたりが大雨に見舞われ、旭川へ繋がる国道40号、留萌に繋がる日本海側の国道232号が通行止めで、浜頓別~音威子府を結ぶ国道275号を経由しなければ行けない状況が2日間ほど続きました。 天塩町は今日まで断水状態になっていたようです。 そんな訳で、大荒れの天候だった道北は今日から晴天となりました。 皮肉なものですね。

苫前町

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以前から、萌天のシーニックメンバーから聞いていたが一度も行ったことがなく、今回立ち寄ってみました。   【苫前町でおきた惨劇(三毛別の熊事件)】 1915(大正4)年12月9日から12日にかけて、1頭の熊が9人を殺傷する事件がおきた。 苫前町字三毛別(現在は三渓別)には1910年ごろから新耕地へ15戸が入植していた。 12月9日午前、冬眠に入らなかった熊が突然この集落を襲い、太田宅に遊びに来ていた9歳の少年と太田の妻マユを殺し、59歳の同居人に重傷を負わせた。 熊はマユを付近の林に引きずっていったのを村人は見てて、翌日喰い荒らされたマユの遺体を取り返して太朗宅で通夜をしていた。 その最中、再び熊が現れ、このときは熊の侵入を知った村人たちの騒ぎで姿を消した。 10日の午後、当時は開墾などで男共は不在で、斎藤タケが二人の子どもを連れて同じく不在の子ども五人がいる明景ヤヨ宅へ避難していた。 そこにまた熊が侵入、臨月のタケと3人の子どもを殺し、ヤヨと1歳の赤ん坊に重症を負わせた。 これで被害者は死者6人、重傷者3人の大惨劇となった。 羽幌警察署は討伐隊を編成し、旭川の第七師団にも出動を要請する騒ぎとなった。 14日朝、身長2.7メートル、体重340キログラムの雄の熊を仕留めたのは鬼鹿村の当時65歳の猟師山本兵吉であったそうです。 この事件は、吉村昭の小説『熊嵐』で、多くの人びとに知られるところとなった。苫前郷土資料館には、被害者の手紙や吉村昭の小説の原稿などが展示されています。

第50回 稚内みなと南極まつり

今回は記念すべき50回大会でした。 8月7日・8日の2日間に亘って開催されたイベントは、天候にも恵まれ すべて無事終了いたしました。 特に、懐かしい南極踊りが復活をして、歌っている畠山みどりさんも 駆けつけ生で歌っていただけましたし、参加人数も1200人に及びました。 最終日の花火大会も、いつもは肌寒いなかを観覧しているのですが 今年は暑かったので、まさしく納涼花火大会でした。 写真・・・ありません。

景観

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238号を浜頓別に向かう途中、猿払村浅茅野付近に、日本とは思えないような牧歌的風景が広がっています。思わず道端に車を止めてみてしまうよう な広大な景観です。