2011年3月14日月曜日

東日本大震災

被災された皆様にお見舞いを申し上げます。

この週末、TVに釘付けになっていました。
しかし、長い時間見ていると疲れてしまうほど悲惨な場面が流されていた。
見ていて、90年の湾岸戦争、01年の9.11同時多発テロのときのように
なにか映画を見ているような錯覚、覚めて見ている自分が怖い気がしました。

稚内は何の影響もなく、市が企画されていた「環境フェスタ」が
ゲストなどが東京方面からくることなどから、延期(中止)されました。
地震・雷・火事・親父というが、津波の恐ろしさを改めて知りました。

yahooにこのようなニュースが報道されていました。
「早く逃げてください」--。
街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が
分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。
多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、
その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた
女性職員がいた。

「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。

同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。
娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の
防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。 
難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の
津波が町役場を襲った。
助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。
その中に未希さんはいなかった。 
遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を
聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。

地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は
「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の
声を聞きながら携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の
志津川高校のある高台を目指した。
停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。
高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き
その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。 
芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。
車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。 
芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。
「娘さんの声がずっと聞こえたよ」

まさしく命を使った仕事、「使命」を全うした話です。
稚内に関わりのある史実で、1945年の第二次世界大戦終了間際の
樺太真岡郵便局の電話交換手が、同じように最後まで仕事を全うした
話(映画氷雪の門)があります。


いまだ発見されていない多くの方々の一日も早い発見を祈ると同時に
犠牲になられた皆様に哀悼の意を表します。

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